長崎

長崎へ移住?

まりん
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長崎とはどんなところ

長崎は新幹線が開通し、出島メッセ長崎が令和3年に完成、そして昨年11月にアミュプラザ長崎新館がオープン、駅周辺の再開発が進み、今後は長崎港周辺も整備されるようです。


今年はスタジアムシティが完成ということで、多くの観光客が来崎の一大チャンスの年になっていて、令和7年には過去最高の観光客数を呼び込むという目標で今動いている街です。

周囲を山に囲まれ、斜面に家が立ち並び、わずかな平地には路面電車が走り、ビルが立ち並んでいます。
高台から見下ろすと長崎港が眼下に開け、港入口には美しい女神大橋がかかっています。
客船がこの橋をくぐって入港してくるのですが、この橋の上で多くの客船ファンを構えている姿を見ることができます。大きな船でしたら橋桁ギリギリなのが見られるとあって女神大橋は人気のスポットになっています。船旅を楽しむお客様が近くに見えるので、手を振ると振り返してくれるということもよくあることで、小さな国際交流の場にもなっています。

コロナ前は毎日のように大型客船が入港していたようです。現在は毎日ではないものの、それでも少しずつ入港が増えているように感じています。将来的には大型客船が2隻停めることができるよう工事の計画をしています。

かつてはポルトガルなどの外国船が行き来し、出島に商館があり、街中を外国の方が歩いていたという長崎。当時は本当に珍しい国際交流の街だったと聞いています。

今でも「和華蘭(わからん)文化」と言って、長崎の生活の中には様々な国の文化が入り混じっており、それは建築物や食文化、イベントなどいろいろなところで感じることができます。

修学旅行などで訪れたことがある方も多くいらっしゃることと思います。
また、2月に開催されたランタンフェスティバルの皇帝パレードに福山雅治さん、仲里依紗さんが出演されたこと、またこれまでより2日ほど長かったことから121万人の方にご来崎いただいたと聞いています。
おそらくおいでいただいた方は長崎は他の街とはちょっと違うなと思われたのではないかなと思います。

移住とは

前置きが長くなりましたが、私は1年前の2023年2月、長崎に家族4人で移住してきました。

移住とは文字通り居住地を移すことなのですが、移住と言うと都会の方が地方に移住するというイメージを持たれる方が多いようです。地方の方が都会に行くのも移住です。

移住の理由は様々で、100人いれば100通りの理由があり、100通りの移住の仕方があります。
また、移住の仕方にはこれが正解というものがありません。
移住先で自分や家族が幸せに暮らせているのならその移住は成功なのではないでしょうか。

転勤であればある程度の期間が決まっており、子どもの教育の問題など多少の心配はあるものの、仕事や生活の心配はそれほどありません。

移住は場合によっては1からのスタートになります。
住むところ、仕事、こどもの教育、地域コミュニティとの交流など何もかも自分で手配しなければならず、「初めまして」となるわけです。

もちろん、相当な覚悟で移住されたわけですから、何があってもという気持ではあるのですが、やはり土地にも人にも相性というものがあり、性格的にすぐに土地になじめる方、なかなかうちとけるのに時間のかかる人もいます。
相性のない土地、なかなかなじめない土地で暮らすのはたいへんなことで、何人も帰っていく方を見送りました。

そういう私も元々移住に積極的であったわけではなく、見知らぬ土地に住むことにかなりの不安がありました。

移住にはUターン、Iターン、Jターンの3パターンがあります。
Uターンとは、地方から都市部へ移住したものが再び地方の生まれ故郷に戻ること。
Iターンとは、出身地とは別の地方に移住すること。
Jターンとは、地方から都市部へ移住し就職した後、故郷のほど近いところに戻ること。
と理解しています。

私はこのうちのIターンになります。

以前私は友人とツアーで長崎に来たことがあり、長崎の有名どころを効率よく巡り、おいしいものを食べ、親切な長崎の人と出会い、素敵な街だという印象を受けたものの、正直楽しむことに精一杯で深く長崎を知ろうとはしませんでした。

このときには5年後に自分が長崎に住むことになるなどと想像もできませんでしたし⋯。
人生一寸先は何が起きるかわかりません。

移住しないか?

移住の話が出たのは3年前のコロナで日本中が暗澹としていたとき。
当時ポツポツ話題になっていたコロナから避難的に地方に移住する話なのだろうと思っていました。

コロナが蔓延する中で双子の出産を経験しており、当時まだ0歳の乳飲み子を連れての移住は体力的にも精神的にもとても無理だとわかっているのに「今なぜ?」と、感染予防と育児に手いっぱいでイラッとしたのを思い出します。

こどもが1歳の誕生日を迎えた頃、再度移住の相談を受けました。
今すぐではないこと、こどもがある程度大きくなった頃に長崎に移住したいこと、気候が温暖で人が優しい街であり、自然も多く、きっとこどもものびのび育つはずだと言うのです。

主人は長崎の大学を卒業していたということもあり、長崎の土地勘はあります。

まだあきらめていないことに驚きつつも、心は全く移住に傾きませんでした。

内閣官房・内閣府総合サイト はじめての移住応援サイト
長崎市移住・定住応援公式サイト
長崎県移住支援公式HP ながさき移住ナビ

移住までは情報を得て判断し、決断することの繰り返してす。

移住をしたら受け身ではなく、自分の方から積極的にアプローチをしていかなければなりません。受け身でいると地域に馴染むのが遅れ、情報も入りにくくなります。

今まで住んだことのない街であれば積極的に動き、情報をつかみ、周りの力を借りながらいかに早く生活の基礎を作り上げていけるかが、そのあとの生活の質を左右します。

私はそれほど人づきあいがうまい方ではなく、どちらかというと引っ込み思案で人の輪に入っていくのにかなりの勇気を要するタイプです。

それも移住の決断がなかなかできない壁のひとつでありました。

もうひとつ、なかなか踏み出せない理由がありました。

それは夫の移住の動機が今ひとつはっきりしないということです。

・子どもを自然の中でのびのびと育てたい。

・長崎はかつて住んだことのある土地であり、土地勘があり、知人もいる。

・転職の予定ではあるが、転勤という方法が取れる可能性もあり、もしそれが可能で
 あれば経済的な心配が少ない。

理由としては満点です。

でも、本当にこの理由だけ・・・?

他に何か本当の理由があるのではないかと思えて仕方なかったのです。

疑うわけではないのですが、今の職場の人間関係がうまくいっていないとか?

曖昧な理由での移住は後々良くない結果になるのではないかと思い、思い切って話し合うことにしました。

夫の言う一番の理由は、私を安心できる環境で過ごさせてあげたいということでした。もちろん他の理由も本当にそう願ってのことなのですが、「とにかくまりんが心の傷を癒さないと家族はこれから先もみんな幸せになれない」と言うのです。

夫のこの意見には心当たりがありました。

私は阪神淡路大震災で両親を亡くしました。まだ生まれて数か月のことで、もちろん当時の記憶は全くありません。

養父母に引き取られた私はその後上京し、記憶はないものの大震災について、両親については幼いころから度々聞かされており、皆はっきりは話さないものの、両親が私をかばって亡くなったのだということは想像できました。

写真は震災後の混乱であまり残っていないものの、両親に命をつないでもらえたありがたさをしみじみと感じて生きてきました。

義父母は両親に代わって私を大事に育ててくれました。

その後養父が病に倒れ、養母から危篤の連絡を受け病院に向かう途中、東日本大震災で交通が麻痺、とても歩いて向かえる距離ではないと思いましたが歩くしかありませんでした。

途中で泣きながら歩く私を年配の女性が車に乗せてくれたのですが、とうとう養父の最期には間に合いませんでした。

以来、地震の話題や揺れる感覚に過剰に反応するようになりました。

こどもが生まれてからは自分と同じようなことがこどもに起こってしまうのではないかという想いが強く、傍から見てもわかるように過剰な反応をしていたようです。

夫は私のそのような反応に気づき、災害の少ない場所で生活したいと考えたようです。その中で、頭に浮かんだのが学生時代に住んでいた長崎でした。

しかし、九州には火山があり地震のリスクもありますが、比較的少ないのではないかということになり、悩みに悩んだ末、私たちは九州にお世話になることにしました。

その後も私たちは移住の場所を求め、様々な自治体の情報を調べ続けました。

ふるさと回帰支援センター

長崎移住ナビ

私たちだけでなく、こどもたちにも同じような悲しい経験をさせたくないという気持ちもありました。結局、安全性や暮らしやすさを考慮して、長崎への移住を決めました。

移住の決断は決して簡単なものではありませんでしたが、今は安心して暮らせています。


ABOUT ME
まりん
まりん
会社員 2児のママ
家族構成:夫と男の子と女の子の双子の4人家族
趣味:読書 アウトドア活動 料理
2023年に一家で移住。 子育てや日常生活、お気に入りのものや暮らしの工夫などを紹介するライフスタイルブログです。日々の小さな喜びや発見を共有し、読者の皆さんと一緒に成長していけたらと思います。よろしくお願いいたします。
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