長崎へ移住?(2)
移住までは情報を得て判断し、決断することの繰り返してす。
移住をしたら受け身ではなく、自分の方から積極的にアプローチをしていかなければなりません。受け身でいると地域に馴染むのが遅れ、情報も入りにくくなります。
今まで住んだことのない街であれば積極的に動き、情報をつかみ、周りの力を借りながらいかに早く生活の基礎を作り上げていけるかが、そのあとの生活の質を左右します。
私はそれほど人づきあいがうまい方ではなく、どちらかというと引っ込み思案で人の輪に入っていくのにかなりの勇気を要するタイプです。
それも移住の決断がなかなかできない壁のひとつでありました。
もうひとつ、なかなか踏み出せない理由がありました。
それは夫の移住の動機が今ひとつはっきりしないということです。
・子どもを自然の中でのびのびと育てたい。
・長崎はかつて住んだことのある土地であり、土地勘があり、知人もいる。
・転職の予定ではあるが、転勤という方法が取れる可能性もあり、もしそれが可能であ れば経済的な心配が少ない。
理由としては満点です。
でも、本当にこの理由だけ・・・?
他に何か本当の理由があるのではないかと思えて仕方なかったのです。
疑うわけではないのですが、今の職場の人間関係がうまくいっていないとか?
曖昧な理由での移住は後々良くない結果になるのではないかと思い、思い切って話し合うことにしました。
夫の言う一番の理由は、私を安心できる環境で過ごさせてあげたいということでした。もちろん他の理由も本当にそう願ってのことなのですが、「とにかくまりんが心の傷を癒さないと家族はこれから先もみんな幸せになれない」と言うのです。
夫のこの意見には心当たりがありました。
私は阪神淡路大震災で両親を亡くしました。まだ生まれて数か月のことで、もちろん当時の記憶は全くありません。
養父母に引き取られた私はその後上京し、記憶はないものの大震災について、両親については幼いころから度々聞かされており、皆はっきりは話さないものの、両親が私をかばって亡くなったのだということは想像できました。
写真は震災後の混乱であまり残っていないものの、両親に命をつないでもらえたありがたさをしみじみと感じて生きてきました。
義父母は両親に代わって私を大事に育ててくれました。
その後養父が病に倒れ、養母から危篤の連絡を受け病院に向かう途中、東日本大震災で交通が麻痺、とても歩いて向かえる距離ではないと思いましたが歩くしかありませんでした。
途中で泣きながら歩く私を年配の女性が車に乗せてくれたのですが、とうとう養父の最期には間に合いませんでした。
以来、地震の話題や揺れる感覚に過剰に反応するようになりました。
こどもが生まれてからは自分と同じようなことがこどもに起こってしまうのではないかという想いが強く、傍から見てもわかるように過剰な反応をしていたようです。
夫は私のそのような反応に気づき、災害の少ない場所で生活したいと考えたようです。その中で、頭に浮かんだのが学生時代に住んでいた長崎でした。
しかし、九州には火山があり地震のリスクもありますが、比較的少ないのではないかということになり、悩みに悩んだ末、私たちは九州にお世話になることにしました。
その後も私たちは移住の場所を求め、様々な自治体の情報を調べ続けました。
私たちだけでなく、こどもたちにも同じような悲しい経験をさせたくないという気持ちもありました。結局、安全性や暮らしやすさを考慮して、長崎への移住を決めました。
移住の決断は決して簡単なものではありませんでしたが、今は安心して暮らせています。